お食事の終わりがけに

食べ切ったつもりのどんぶり鉢に、米粒が一つ。

残ったのか、残されたのか--ぽつねんとある。他人事のように思えなくって、それをまじまじと見た。

世界は広い。9歳のときに学校で学んだ。たったバスケットボール1個分ほどの地球儀に。それはあまりにも実感がなかった。先生はきっと嘘をついていないんだろうと思えたが、本当のことを言っているとは思い切れない。

百聞は一見にしかず。10歳のときに学校で学んだ。ほらね。先生はほとんど百聞しかやらないじゃんか。あの地球儀は、一見に見せかけた巧妙な百聞である。そんなことを思った。(当時はこんな流暢でない。)

その後は、ときたま地球儀を見ることはあったが、世界が広いということは実感として得られていない。それをたしかに証明できない。

いくら世界のニュースを見聞きしようとも、私は心と体がぴったりとくっついて、離れなくて、体はたしかに今、ここに座っている。それしか証明ができない。

べつに、べつに、広さを感じる必要などないのに、なぜだかこのように書き綴っている。きっとあの9歳の社会の授業からずっと、抗っている。何らかに。そんな事実はあらへんがな、と。

事実はただひとつ。

どんぶり鉢に米粒が一つ。

私はそれを見ている。

これはまちがいなく“一見”である。こいつは世界の広さを証明できる米粒かもしれない。なんて、知らんけど。

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